体罰?体罰じゃない? 大阪の体罰・自死事件から(過去記事再構成・再掲)

体罰なのか、体罰じゃないのか?

大阪の「部活動で体罰・自死」の事件の話をfacebookに書いた時に「結局、体罰かそうでないかは叩いてストレス発散するアホと、熱血野郎の大きな違いだよね」というコメントを友人からもらいました。

で、当時は教員をしていてあまりオープンな場でこの手の話をすることを避けていてオープンでないところで書いた話がありました。
とりあえず、教員でなくなったので少し自分の意見も出しておこうかな、と思います。

「結局、体罰かそうでないかは叩いてストレス発散するアホと、熱血野郎の大きな違いだよね」
これ、基本的には賛成です。ただ、少し異論あります。

基本的に体罰は禁止されているのですが、体罰の定義ってのが難しい。
wikipediaでは(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%93%E7%BD%B0

学校教育法第11条にいう「体罰」とは、懲戒の内容が身体的性質のものである場合を意味する
身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る・蹴るの類)は体罰に該当する
被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒(端坐・直立等・特定の姿勢を長時間にわたって保持させる)は体罰に該当する。
すなわち、「体罰」はその成立要件として、懲戒の対象となる行為に対して、その懲戒内容が、被罰者の身体に対する侵害を内容とするか、被罰者に肉体的苦痛を与えるようなものであり、その程度があくまでも「罰」の範疇であること。
往々にして、最初の条件を欠くものが多い。 また法務省では体罰を日本国内における主な人権課題の一つとみなし、「校内における暴力容認の雰囲気を作り出したりするなど、いじめや不登校を誘発する原因と考えられる」との見解を示している。

あとは、こんなのもあります。
問題行動を起こす児童生徒に対する指導について(通知)2007年2月5日付

細かい内容はさておいて、、、こんな文が入っています。

体罰がどのような行為なのか、児童生徒への懲戒がどの程度まで認められるかについては、機械的に判定することが困難である。また、このことが、ややもすると教員等が自らの指導に自信を持てない状況を生み、実際の指導において過度の萎縮を招いているとの指摘もなされている。ただし、教員等は、児童生徒への指導に当たり、いかなる場合においても、身体に対する侵害(殴る、蹴る等)、肉体的苦痛を与える懲戒(正座・直立等特定の姿勢を長時間保持させる等)である体罰を行ってはならない。体罰による指導により正常な倫理観を養うことはできず、むしろ児童生徒に力による解決への志向を助長させ、いじめや暴力行為などの土壌を生む恐れがあるからである。

この2つは、教員をしていると意外と何度も見ている文です。
体罰の話をするときは必ずと言っていいほどよく出てきます。文で出てこないでもキーワードとして「一律に扱わない」とか「機械的に判断しない」とかは出てきます。

で、、、、
「機械的に判定することは困難である」ってところ

「懲戒の対象となる行為に対して行われる」という考え方。

これは悪用ができてしまうコンボなんですよ。「機械的に判定しない」から事例ごとに判断するわけです。場合にもよるでしょうが「前例踏襲」は基本路線。

前述の友人が言う「熱血」はおそらく生徒たちが「体罰ではないです」と言ってくれることで回避してきているわけですね。「機械的に判定」できないので生徒たちに「どうなんだ?」と聞いてまわるわけです。「熱血」な先生です。生徒たちにも慕われてます、きっと(最近はそうでもないことも多いですが)。生徒たちは「体罰は無いです」とかいうわけです。

で、問題はただ「叩いてストレス発散しているアホ」です。「叩いてストレス発散」している教員はすでに絶滅危惧種でほぼ生息していません
 しかし、生き残っているのはいます。「擬態」が得意なタイプです。つまり「論理的に破綻なく、しっかりと体罰を理解して」いて「それを逆手に取って体罰を行う」教員が残っています
つまり上に書いたようなルールをしっかりわかっているわけで、、、、
例えば、生徒が部活で大きなミスをした時。生徒から罰を受けたいと話させるようなタイプ。
先生「今のミスは何だ?」
生徒「自分がボーっとしていたので起きました」
先生「そうか、じゃあどうしたらいい?」
生徒「罰走、行ってきます」

よくありますよね?こんなシーン。これって「自主的に自分を罰しているから問題ない」ということになると思いますが、これが普通の光景ですかねえ?中高生が自分で自分のミスを認めて自分で自分を罰するような思考パターンを自分だけで獲得するとは思えないんですよね。
その先生の「無言の圧力」や「周囲の空気」に気圧されてやっているのであれば、、、
コレは

懲戒の対象となる行為に対して、その懲戒内容が、被罰者の身体に対する侵害を内容とするか、被罰者に肉体的苦痛を与えるようなものであり、その程度があくまでも「罰」の範疇であること。

という体罰の定義(の1つ)、「肉体的苦痛」であると思うのです。
でもこれって普通に行なわれていたりしますよね?

上の熱血指導の先生との違い、わかります?
熱血先生は「体罰」だと思っていません。ある意味バカです。でもホントに生徒のことを心配していて、思わず体罰をしてしまっています。当たり前ですが「体罰してますからダメ」です。
でも生徒が庇ってくれているから表に出てこない、というのが熱血指導の先生

ところが「擬態している、叩いてストレス発散しているアホ」は「体罰だとわかっている」のです。その上でそれが「体罰だと認定できないような方法」を知っていて「それを理解して使っている」わけです
、、、さて、それを見破る労力はかなり必要なわけです。普段から生徒との関係がどういう状況なのか確認していないと区別はつかないでしょう、きっと。
それどころか、古い考え方をしていて叩いてでも理解させるほうが大事だと思っています。その上「生徒も納得してる」と考えていて、、、生徒も「納得せざるをえないな」と思っています生徒は「自分から罰走を申し出ました」「先生は何も関係ないです」というでしょう。

さて、この場合両方ともに「体罰ではない」でいいのか、、、ということに帰着しそうですが、、、ちょっと違うんです。

教職員の一部は、その「擬態している、叩いてストレス発散しているアホ」と生徒の関係性が一部破綻していて、生徒が「納得せざるを得ない状況」を作っていることを知っています、きっと。、、、この場合、見えてくるまでに時間がかかり、生徒への被害が大きくなる(最悪の場合、自死に至る)わけです。

1番の問題点は何をもって体罰とするか、ではないと思っています。
「生徒が死なないためにはどうするか」が学校現場では結構本気で語られていたりいます。
「杞憂」であれば1番いいのです。
それが今の学校現場の思いじゃないかな、と私は思っています。

その目線で教員が考え・授業をしていると考えている保護者(だけではなく、大人たち)がどれくらい居るのか、という部分。
これだけ児童生徒学生が自殺をしたり自殺のフリ(リストカットとか)をしたりしているのに、何故学校の教員が本気で取り組んでいると思ってもらえないのか、、、まあ実際に自殺していて、救えていないニュースが多いからでしょうけど(笑)。救えた時にはニュースになりませんよね、当然ですが

今の子どもたちの深層心理にある「死ぬこと」は非常に軽いそれをどれだけの大人が正確に捉えているのだろう。学校の「せんせー」達はそれを目の前にして愕然としていたりする。保護者に伝えても「一過性のもの」だと思われてしまう。物凄く長く継続的に見ないとダメ、、、だったりする。
なんせ今時は「小学校の時のイジメが原因で大学時代に自殺未遂」ってなこともありますから。

「生きるか死ぬか」わからない子どもを相手に「普通に授業」していても通じません。だから先生によっては「ものすごいストレス」が溜まるでしょう。それは「死にそうで死なない祖父母が病院にいる家族が崩壊していく」ことと似ていると考えています(例えが悪く申し訳ない、別の表現が見つかりませんでした)。
そのストレスを授業ではない部分の教育を頑張ることで発散している人が多くいても、、、と思ったりもしています。部活の指導や「全人間的な教育」という表現、、、「不登校児を救うために夜回りする」、、、本当に教員として必要な資質なのか?いや、必要だと思っているんですけど、それを求めてますかねえ、社会は?

教員の仕事の「本流」は何なのか?「教科を教えること」なのか?それとも「人間を育てていくこと」なのか?社会の要求に応えること、だと個人的には考えています。だとすれば、教員の仕事の範囲はどんどん広がる一方だと思いますが、、、。

もう一点、これはほぼ愚痴に近いですが(笑)

体罰を容認する気は無い、という保護者でさえ「昔の学校はよかった」という表現をします。

教員は(少なくとも教員をしていた時の私は)、かなり奥深くまで考えて、「法律的に」「倫理的に」「道徳的に」そして「教育効果の高い」方法を模索しています。
10年前ならいざしらず、20年以上前の教育と比較されるのは非常に心外です。
体罰があったころのスポーツ教育と、今の最先端のスポーツ教育が違うように、、、、教育論は秒進分歩くらいのペースで進んでいます。
「他教科の授業を英語で行う」のは未だに珍しいですが、北海道内でも年に数校はやっています(特に理科の授業を英語で、はメジャーです)。
ALTが毎週来る学校は8割を超えるでしょうし、体育の授業に参加していってくれるALTが居たりします。
自分の話はあまりしたくないですが、、、教員当時、実験授業を行いレポートを書かせる為に、「全員の能力分布」を考えて班を割り振り(文章書ける奴、理科得意な奴、数学できる奴、手先が器用な奴)、各班ごとにヒントを与え(もちろん班ごとにヒントの種類は違います、その場で考えるわけにはいかないので、数パターンは準備)、レポートの提出があれば一人ずつ添削をし、内容が足りない場合は足りない部分を指摘し、字が汚ければ「綺麗に書くこと」とコメントし、文章表現がおかしければ呼んで「同じ班のアイツに教えてもらえ」と話をし、、、といった活動をします実験授業は「1時間」の授業です全員のレポート提出がされるまでに1ヶ月かかることは珍しく無いです。もちろん、その間に別の実験も始まったりします、、生徒に怒られるのであまりしませんでしたが(笑)。理科教員のほとんど全てが同様のことを「1時間の授業」で行なっています。授業の時間数は足りない、でも実験はしなきゃいけない、というジレンマ。
ある体育教員は「全ての体育授業」で何らかの点数化を行なっています。体育が苦手な生徒でも満点が取れるような形で行い、明確に点数化して評価をしています。
運動神経が悪くても「5」だったりする理由をしっかり説明できなければダメだからです。

、、、社会の人たちは学校現場は「遅れている」と思っていますよね。
確かに仕事の仕方は遅れていると思います
でも、対生徒に関しての思い、考え方、方法論、は物凄く考えぬかれています

体罰、という話の根底にあるもの。
「社会が持つ『学校という閉鎖系社会の古さ』というレッテル」が1つあると思います。
少なくとも、一部分はその通りだと認めます。
そうでない部分、特に子どもたちの現状把握に関しては「かなりの深さ」まで考えぬいて授業をしている人がほとんどでしょう。

話が分散しました、、まとめます。

体罰はダメです。どんな形であっても。法律で決まってるので(当たり前)。
学校の先生は結構考えてますし、ものすごく頑張ってます。たぶん社会の皆様が思っている100倍位頑張ってると思います。

ということです。

補足

部活動は教員の仕事ではありません。より正しく言うとグレーゾーンに入ります。部活動が仕事でないという証明は「土日に部活をしても給与は発生しない(手当は発生します、4時間以上で2000円程度)」ことでできるかと思います。仕事なのであれば部活動をした日も勤務になるはずです。
ですから、「部活動での体罰」という問題は「仕事外での指導での暴力」であると言えるのかもしれません。

愚痴もずいぶん入ってしまい、ただただ読みにくい文章になったのは許してください。
眠い中、3日くらいかかったのでまとまりが悪くなりました。

と、いうことで、私見でした。

この記事を書いた人
すぎやま

札幌の家庭教師屋さん・家庭教師がつくる塾BASEの人
名古屋出身・富山大学卒・富山で小学校講師・北海道で公立高校教員・家庭教師をしていたら塾ができていました。

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