ここ数ヶ月、「不登校ビジネス」という表現が出回っています。関東某所の教育委員会が採用した(してない?結局よくわかってない)不登校支援の会社の「不登校支援」が非常に危険じゃないか?という、、、「不登校を食い物にしてる」という論調のお話ですね。
で、、、まあ、色んな方が色んな形で書いてくださっているので、こんな小さい塾(と家庭教師)が書くのもどうかと思いつつ、、、意見表明しておきます。、、、あまりにも酷いので。
不登校、という状況。
「学校に行かないこと」だったり「連続して欠席が30日以上」とか「年間欠席が30日以上」といった具体的な日数が出ていたりしますが、、、何にせよ「学校に結構いない事が多い」状態を我々は不登校と呼んでいるようです。
昔々は「登校拒否」でした(10回クイズでは東京コーヒーとかありました、、、年齢がバレるネタだな、、、)。
「児童・生徒が登校を拒否している」という学校側(教育委員会側?)の受け止めの用語として出てきたようです。ただ、登校拒否の児童・生徒の側から「私は拒否してない、『行きたいのに行けないんだ』」という言葉が出てきて、その流れで「不登校」=「何らかの理由で登校できない状況にあるのであって、登校を『拒否』しているわけじゃない」となっていきました。
逆に「私は『登校拒否』とあえて言う!」と言ってた人もいたり、、、(富山にいらっしゃいましたね、懐かしい。お元気でしょうか?)、、、という時代を経て、現在の「不登校」という状況(概念?)があります。
長々書きましたが、、、。
現在は、「学校に行かないこと」を不登校と言ってる、というイメージでいいのかな、と思います。
思いますが「専門的に対応してる」方々はもーちょっと細かく色々分類しているかと思いますので、反論あると思いますが、、、今回はざっくりと「学校に行けていない・行かないこと」を「不登校」として話をしていこうと思います。
今回の件、反論だけ取り上げます。
色々思うことありますが、某会社の主張があまりにも「古臭く、既に(不登校団体とかでは)話が終わっているような議論」を持ち出しているので、、、あまりにも「稚拙」なんです。で、取り上げません。
反論の方がよい勉強になるのです、ホントに。
「反論ではない」けど、、、反論。
「医療だと」と注釈付きでお話されています。「会わない支援」は可能で「本人が望まない場合・それがよい支援である可能性もある」と。
同じスレッド内で、、、
子ども本人に会わずに「重度の精神疾患を抱えていたり、自殺衝動や自傷行為などの行動があるお子さん」を見分けられる、、、と「児童精神科の先生が驚く」ような事を仰ってる、んですよね、この会社さん(代表者さん?)。
という辺りから始まって、、、、色々な方が、色々な反論(反論ではなく、意見?)をしています。
攻撃的なものも多いですし、某区に抗議文を出してくださっている団体も多くあって、、、かなり「炎上」している状況だと思います。
その中で、、、
この記事「精神科医さわさん」のお話が非常にわかりやすいです。
起きている現象に対して一つずつ「論拠出しつつお話」してくださるので理解できる、、、と思うのです。
一読の価値があります。不登校(や発達障害など、子どもに対して)の支援をされている方はぜひぜひ読んでみてほしいですm(_ _)m
そして、色々な方の反論。多くの反論で「親にだけアプローチする」ことを否定することをされている方が居ないのです。
ただ、それだけでは「片手落ちになるのでは?」といった論調で、、、支援してること自体を否定されず「でもそれだと、危険がある」ので「もう少し、やれることあるし、やってること危ないですよ」という表現をしていて、、、。
皆さん、優しいんです。
、、、まあ、昔々、大変だった時期に「頭ごなしに否定されている」支援者の方々が多いんじゃないかなー、と、、、思ってます(、、、そんな時代でしたよね、初期の不登校支援って)。それで、頭ごなしの否定ではなく「良い悪いを判断・是々非々で対応」になってるよーな気がしてます(私が勝手に、そう思ってるだけですが)。
不登校支援、、、親を支援?子を支援?
不登校の支援というのは結構歴史が長くて、、、。
「子どもに寄り添った支援」になるまでに長い時間がかかっています。
有名な話でいえば「戸塚ヨットスクール事件」でしょうか?ものすごく単純化して話せば「体罰で子どもが死ぬ」という事件ですが、、、。
引きこもっている子を強引に連れ出して、色々叩き込んで、、、といった施設・団体がこの当時大量にありました。「子どもはわかっていない」ので「大人(社会)の理屈・理論を叩き込めば良い」、そのためには「体罰も辞さない」そしてそれは子どもへの「愛情である」という時代、、、でした。
そこから始まって、10年、20年かけて「子どもを中心に据えて、支援していく」「大人(周囲)がどう思うかではなく、その子がどう思うか」を支援の中心に、、、変わっていきました。
その流れの中で「子どものワガママだけになるのではないか」とか「見守るのはただ見ているだけではない」とか「学校に戻っても、辛いのが増えるだけ」とか、「学校に行かないデメリット以上に行くことのリスクが高い」といった事が「支援者が身を持って知る」形で多々起きました(具体的な話や経験談は、多々本になっているので、、、ここで一個ずつ取り上げてお話しませんm(_ _)m)。
その結果「子どもに寄り添って・見守りつつ・時間をかけて・学校は今はどーでもいい」という今の不登校支援の基本の形ができた、、、と考えて(感じて)います。
「親が、子どもに指示を出来なくなる」なんて、1980年代のドラマ(「不良少女と呼ばれて」とか「スクールウォーズ」とか)では「家庭内暴力」という形で既に表出していて、、、その解決方法・解消方法も、見つかっているわけで、、、「親が強くあれば良い」ではなく「親と子が話しができる状況をどう作るか」という支援が必要だというのは支援をする人たちにとっては「ごく当然の事」だと思っていたのですが、、、まだ時代錯誤なことをする会社(団体)があるんだなー、、、と。
昔々あるところに、、、
某会社の代表の方が30代で、、、ちょっとビックリしたのです。こんな「昭和」なやり方をする若い人が出てきたのか、と。
、、、あ、これはもしかしたら「不登校に関してどうだったのか」というここ20年〜30年の話を知らない人たちが増えたのか?と思いまして。
私(48歳:2024年現在)はon timeで不登校支援が変わっていくのを見ていて、、、私より上の支援している方々は「変わっていく」を実際に「変えていた人たち」で。
特に教えられるでもなく、私たちは「見ていて知っている」ことだったのですが、今の20代・30代は「知らない」どころか「歴史」の話になるのか、、、と。
、、、書いておく必要あるなあ、と。
伝える気はないのです、、、。伝えると「そうしなきゃダメ」になってしまうこと多くて、、、嫌なんですよね、そーゆーのは
ですので、情報として、私からこう見えていた・今こう見える、というお話を書きました。
これが正しいんだ!!というつもりはないんです。
ただ、今回の某会社が言ってることは「既に、不登校支援の人たちが乗り越えて、『そうじゃない方がいい』とわかっている話」だなー、、、と。
少なくとも、先行事例はしっかり知ってから行動してほしい、、、ので「より楽に読める」ように本や論文ではなく「ブログ」とか「X(Twitter)」に書いておきます(他の方もそう考えて書いてくださっているんだろうなーと思っています)。
子どもへの「支援」
この先も、基本的には「子ども中心」であることは変わらないだろうと思います。
かと言って「本人が拒否しているから、全く何もしない」が正解なのかどうかは「状況による」し「その人による」わけで、そういう意味では「何でもかんでも、子どもが全ての中心ではない」だろうと思います。
ただ、大前提として「子どもも1人のヒト」であるので、「その決定を大事にすることは当然だ」というのが支援の基礎にあると思います。
「とはいえ、明らかに間違ってるよな、それ、、、」という時に、どういった形で介入するのか、ただ「それは違う!」といえばいいだけじゃないハズですし、「それは間違ってる」と毅然と言わなければならない時もあるハズです。
表現が難しいのですが「親」という表現を使う時点で、あまり信用していなくてですね、、、。
、、、20年前くらいから学校現場は「保護者」という表現に置き換わっていっていて。当たり前ですが「親ではない、保護者」という家庭も多くありますし、不登校を支援しているとそういったご家庭も見ることがあるハズなのです。でも「親」という表現で書くってことは「配慮しないんだろうな、細かいところは」と感じてしまうわけで、、、。
、、、何にせよ、今回の某会社と代表さんの言説は、あまりにも稚拙で「もー、そのお話は終わったハズ」の事が多かったです。
この先、子どもたちの支援がうまく回って行ってくれるといいなー、と思いつつ。
終わり。
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